ペリリュー島歴史館
ペリリュー島は、パラオ諸島にある小さな島です。その平和な島で、第二次世界大戦の末期、日米両軍によって73日間にいたる死闘が繰り返されました。
ペリリューに散った”サクラ・サクラ”
戦争当時、日本軍はフィリピンを防衛するために、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していました。ペリリュー島は日本にとって、いわばフィリピン防衛の防波堤であったのです。ペリリュー攻防戦は、昭和十七年六月のミッドウェー海戦で日本が惨敗し、米軍の反攻が本格化し、昭和19年になると、米軍は対日包囲網を圧縮してきました。日本軍は昭和十八年から十九年にかけてガダルカナル島、アッツ島、トラック島と玉砕を続けていました。これらの戦闘のたびに、日本軍は兵員・艦船・航空機を失っていった。そして日本本土直接攻撃の拠点となるサイパン、グアム、テニアンの各島が米軍の次の攻撃目標となるのは必至だった。米陸軍を指揮するマッカーサーにとって、フィリピンを攻略するためには、フィリピンの背後に位置するペリリュー島を奪取しなければ、戦況を有利に進めることはできませんでした。そこで、米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団(師団長、ウィリアム・H・リュパータス少佐)にペリリュー島の占領を命令しました。さらに、勇名を以って鳴るハウゼー大将が指揮する第三艦隊約八百隻の艦艇が、海兵隊支援のために差し向けられました。
これに対するペリリュー島を守備する日本軍は、水戸の第十四師団の歩兵第二隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男大佐)一万二千人。満州(中国東北部)の関東軍指揮下から、ニューギニア、マリアナ、そしてパラオと転進してきました。しかし、装備・資材は「弾薬半会戦分、自動車用燃料一ヶ月分、食料六ヶ月分」にすぎませんでした。一回戦は通常三、四ヶ月の戦闘を予定しています。そしてその後の補給は、小銃弾一発すらなく、この時点でペリリュー守備隊の全滅が運命づけられていました。これまで太平洋の島々が攻撃された時、日本軍の持久期間は短く次々に玉砕しました。それは、「水際撃退」を至上の戦法にしてきたからでもあります。その戦訓をいかし、ペリリューでは、内部に深く洞窟を構築して待機していました。
すでに制海権・制空権を手にしている米軍は、狭い小島に文字通り絨毯爆撃と艦砲射撃を加え、九月十五日、航空母艦を含む機動部隊を背景に、上陸作戦を敢行してきました。総兵力四万二千。それに対して、日本軍は、二度までも上陸を阻止するほど勇戦しました。しかし、上陸を阻止してからは、予定通り五百の洞窟にこもって、持久戦に移りました。連日連夜、彼我肉迫する戦闘が続きました。日本軍は弾丸や食料の補給が続かなく、死傷者が続出しました。しかし七十三日間を持ちこたえ、健在者は僅か五十数名に減ってしまいました。
そして十一月二十二日、中川隊長は、パラオ地区集団参謀長多田督知大佐宛、訣別の電報を打ちました。
二十四日、いよいよ全軍玉砕の時が迫りました。中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた村井権治朗小将、飯田善栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って割腹自決。三人のあっぱれな最期に続けと、最後の決死隊が組織されました。根本甲子郎田大尉以下、傷だらけの五十五名は、夜鬼のごとくになって突撃してゆきました。米海隊公刊戦史によれば、「日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、二十四日の夜から二十七日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕した」とあります。
そして、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、二十四日の十六時でした。この六文字の電文は、ペリリュー守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを意味するのです。
ペリリュー神社
ペリリュー島は、現地住民の住んでいる島です。島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験しているいて、大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をコロール島に退避させました。
この誠意が通じたのか、戦いが終わって帰島した彼らは、日本人の遺体を見て泣いたそうです。島民はこぞって日本軍の遺体を葬り、墓地の清掃に心掛けました。
現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」が建っています。それを中心に、日本の各団体によって三十数基の慰霊碑が肩を寄せあるように建立されました。
ペリリューには、昭和九年に「南興神社」が建立されていました。現地人たちは昭和十九年の玉砕戦で神社が破壊されるまで、同神社を「ペリリュー神社」と呼称して、島の安泰と繁栄を祈願してきました。
そして昭和五十七年には、「青年南洋群島慰霊巡拝団」二十名が、船坂弘氏の助力を得て、ペリリュー神社を再建しました。すべて日本から運搬した材料を使い、島民の協力を得て、十日間費やして完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。
オレンジビーチの戦い
昭和十九年九月十五日の日の出を期して攻撃した米軍二個師団四万の兵は、ペリリューの西側に則したリーフの先より、上陸用舟艇や戦車を先頭に殺到してきました。だが緒戦では、日本軍の速射砲による対戦車攻撃で、大きな損害を受けた。米軍の交戦記録には「一インチ進むたびに一パーセント損害が増える」と書かれている。最初の損耗率は50%をゆうに超えていた。その中のひとつ、560人編成の小銃小隊の生き残りはわずかに74人にすぎなかったほどです。
一度は退却を余儀なくされた米軍は、日本軍と正面から対峙する強行上陸を避け、守備隊の手薄な側面に迂回する作戦をとった。正面からの攻撃は陽動作戦に近かった。
やがて米軍は上陸に成功し、橋頭堡の確保に成功する。そして米軍が拠点を確保した後の日本軍の損害は、一挙に拡大していく。日本軍はいたづらに斬りこみ攻撃を繰り返し、そのつど大量の死体の山を築いていく。
米軍は占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。それは、アメリカ兵の血で美しい珊瑚の海がオレンジ色に染まったからです。現在「オレンジ・ビーチ」はペリリュー島の正式名になっています。
ニミッツ提督はその著「太平洋海戦史」の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米軍の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権・制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
一年半の孤独な闘い
山口少尉、聞こえるか。私は日本からお前たちを迎えに来た。日本は戦争に負けたのだ。山口少尉、出てきなさい」
昭和二十二年三月下旬、パラオ諸島ペリリュー島の中央部、生い茂るジャングルの中に、連日、日本語が響き渡った。日本軍が「大山」と名づけたこの一帯に、武装した100人近い「元」日本軍がひそんでおり、時折、米軍と小規模な銃撃戦を交えているとの情報をもとに、米軍が行った救出作戦の一幕だった。声の主は澄川道男・元海軍小将(50)である。
この呼びかけを、深い洞窟の中でじっと耳をそばだてて聞いている集団があった。当の山口永少尉ら約30人なのだが、彼らは疑心暗鬼だった。
「最初は敵の謀略だ、と思いました。ところが澄川小将が、自分たちの家族から来た手紙を次々と読みあげるんです。そのうえ、自分たちの故郷の話を詳しくする。そのうちに本当かもしれないと心中で思い始めました。もはやこれまでという気持でした。」
数少ない同島の生き残りの将校である山口永氏が、こう、劇的な一瞬を振り返る。
丸腰で洞窟に入ってきた小将は、もう2年も前に戦争は終わっている。日本は今、再建に向けてみんながんばっているんだ。これ以上おまえたちが戦争を続けていては国のためにならんのだ、とおっしゃるんです。それで私たち34人も投降することになりました」
まったく情報から隔離されていた山口氏たちにとって、日本の敗戦は到底信じられない出来事だった。
「その間、たしかに、いろいろ変化がありました。米軍の包囲がとかれましたから、司令部の玉砕は知っていました。けれど、日本が負けるはずはない。細々と闘いつづけていると信じていました。しかし、おかしいこともあったんです。基地のまわりで時折見かけるアメリカの雑誌に、皇族や東京の写真が載っているし、避難して女性など1人もいないはずの島に、女の人が戻ってきたんです。米兵にいたっては奥さんを呼び始めた。それでもまだ、謀略の可能性があると思っていたんです」(山口氏)
なぜ、山口氏らは生き残ったのか。山口氏は、米軍のペリリュー上陸を最前線で迎え撃つ部隊に所属していた。昭和十九年九月十五日の日の出を期して攻撃した米軍二個師団四万の兵は、上陸用舟艇や戦車を先頭に殺到してきた。だが緒戦では、日本軍の速射砲による大戦車攻撃で、大きな損害を受けた。一度は撤退を余儀なくされた米軍は、日本軍と正面から対峙する強行上陸を避け、守備軍の手薄な側面に迂回する戦術をとった。正面からの攻撃は陽動作戦に近かった。そのため、本来ならば最初に玉砕するはずだった山口氏ら最前線の兵に、生存者が多かったのである。